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東日本大震災を体験して

東日本大震災を体験して①:3月11日の東日本大震災は、直接の地震と津波による被害だけでなく、東京電力福島原子力発電所からの放射性物質の流出という被害がどの程度に拡大するか不明の災害をもたらしました。そこで、「あかるい食生活」に身をもて震災に遭われたリーダーさんや誌友さんに状況報告を兼ねて、寄稿をお願いしたところ、多数の方から様々な角度からのレポートが届きました。今年の1月号から順次掲載していくことにしています。読者の皆様の読後感なども特集していきたいと思いますので、未曾有の災害から我々がどのような教訓を読み取ったかも含めて、今後の対策などの参考にしたいと考えております。会長 五十嵐 脩

仙台リーダー 田頭 茉莉子

想像してみて下さい。自分の目の前で夫や妻、子供、孫が波に飲みこまれ、自宅や隣りの家や仕事場が土台を残して跡形も無く、思い出も財産も全て無くなるということを。その絶望と喪失感はあまりにも計り知れない事です。3月11日午後2時46分、経験したことの無い大地の揺れとその後沿岸地域を襲った20メートルを越す大津波は自然の猛威の前に人間はいかに無力かと思い知らされました。雪の降る中2時間歩いて帰宅し、マンションのロビーで肩寄せ合って過ごした夜、見上げた星空の美しかったことが思い出されます。ラジオが仙台の沿岸地域の荒浜、閖ゆりあげ上の海岸に二百から三百の遺体が発見されたとの報道を実感なく聞いていました。電気が復旧し、テレビに映し出された津波や被害の様子を見た時の衝撃は涙無くしては直視出来ませんでした。その後耳にした生死をわけたドラマの数々を耳にして何度涙したことでしょう。緊張と不安の中で過ごした1ヶ月。スーパーの店頭販売やラーメン屋さんの炊き出しに出来た長い行列。誰もが喪にふくしているように静かに並んでいました。直後から救出や捜索、復旧に大活躍して下さった10万人を越す自衛隊、全国の県警、ガス復旧のガスマンの方々、骨身惜しまず助けて下さった多くのボランティアの皆さんには心からの感謝の気持ちで一杯です。先日、被害の大きかった気仙沼に行って来ました。懐かしい街並は無く無彩色の世界でした。大きな船が陸に上がったままになっていたり、津波が一階を突き抜け、二階まで波がとどいた住居が多数まだそのまま残されていて言葉も出ませんでした。かさ上げられた道路には瓦礫を積んだダンプが行き交っており、人影が無く、千葉県警の方が交通整理にあたっておりました。気仙沼では津波の翌日朝、防災放送が「今、自衛隊に救助を要請していますから頑張って下さい」とあちこちで孤立している人達に呼び掛けていたそうです。翌日、新潟や東京の消防車を見たときの嬉しさは忘れられないとか。
1ヶ月は呆然自失となっていた人々は現在ではスーパーが再開されたり、商業地区に仮説店舗がオープンするなど復興に向けて強く立ち上がって来ています。宮城県で8割強の船が流されたり、壊れてしまいましたが全国からの支援で各浜に共同で使う船が届いたり、修復され、また海の仕事ができるようになり、カキの養殖筏やワカメの種付け作業が始まりました。地盤沈下した魚市場もかさ上げ工事が終り、再開にこぎつけ、規模は震災前の何分の一ですが前に向いて歩き始めたところです。通学や買い物、通院に欠かせないJRの早い復旧も待たれます。復興への道程は余りにも沢山の問題が山積みなのは理解してますが、それにしても遅過ぎます。宮城県では23年分という膨大な量の瓦礫があり、瓦礫処理には全国の自治体の協力がなければ復興の一歩が遠のくばかりです。「ガンバレ東北」の激励があるなら実質的な支援をお願いしたいところです。色々な支援は今でも各方面から被災地へ届き、子供達を励まして下さっています。例えば学校給食に宮崎から牛肉やゼリー、日向夏のジュースを頂いたそうです。四月頃は温かいメニューがなく、量も少なくて高学年はお腹を空かせていたとか。
三陸の海は元のエメラルドの海に戻りました。豊かな海の恵みが私達のところに届くのを待っていたいと思います。現在、被災地の人々は支え合い、助け合って懸命に生活しています。今後、私達は各々が無理のない方法で長く支援していくことを考えていかなければなりません。


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